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天使になった実君。

  • 弟とおどけて・・。
    長男、実は2005年2月10日に生まれて、8月21日に突然に世を去りました・・。 何もできないパパでしたが愛と笑顔をふりまいてくれました。 感謝を込めて綴りたいと思います。

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2008年12月

2008年12月31日 (水)

皆さん良いお年をお迎えください。

大晦日となりました。今年はブログにトライしてみました。不慣れな為読み辛い部分も多くあったと思います。来年はより観やすく面白いブログを心掛けたいと思います。ご覧戴き有難うございました。

来年が皆様にとりまして良き一年であります事をお祈り申し上げます。Photo

                                  敬白

2008年12月30日 (火)

年の瀬です。年賀状が間に合いません!

Photo 今年も後2日となり、買い物やら、掃除やら、やる事もあるのに結構半端になってしまいます。毎年の事ながら反省です(;;;´Д`)ゝ

仕事で年賀状印刷をやっていてもイザ自分のになると後回しで焦っています。これも毎年ですが困るのは同じ人に二枚送ったりしてしまった時・・〔ご丁寧に二枚も〕と笑って言われた時の恥ずかしいこ事この上ないです。反して送ったつもりで送らないこともあるのでは?〔今年はこなかったよ!〕と言ってくれる方だと良いのですが・・言わずに失礼な奴と思われれば人間関係にヒビも入りかねないのですから・・取引先には真っ先に出しているのですが駆け込みで書くと出さず仕舞いのミスもないかとチェックしました。

明日は友人への賀状を駆け込みで書きます。漏れがないようによくチェックして。皆さんは賀状すぺて出し終わりましたか?

2008年12月29日 (月)

12月26日(金)仕事納めと親友との忘年会。

仕事納めの一日は納品漏れがないか?チェックして取引先へ挨拶回り。 感謝の気持ちを込めてご挨拶してきました。

そして夕方からは中学時代からの親友と2人で忘年会。 彼とは中学で知り合い大学まで仲良くしたのでしたが、私が彼に意地を張り、折角の換言も聴き入れずにすれ違いその後は音信不通だったのが、今年の夏に彼が私のサイトに投稿してくれたのが切っ掛けで再会が叶ったのです。あれから20年以上たって互いに少しは人生経験も積み笑顔で再会できた事はとても嬉しい出来事でした。

再会してから月に一度のペースで飲み交わし再び旧交を温めています。嬉しいのは逢う度に昔のように、いや歳を重ねた今お互いにフランクに話せること!昔のように私を案じてくれて忌憚なく色々と言ってくれるのがとても有難く思えます。彼から貰ったカレンダーは [ありがとうカレンダー] 特定社会保険労務士として活躍する彼の事務所のカレンダーですが顧問先に毎年配って好評との事。私も新年はこれを飾り感謝の気持ちを忘れずに過ごしたいです。

彼との再会に感謝して、来る2009年も良い付き合いが出来そうです。友よありがとう!そして良い付き合いを続けていこう。

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2008年12月25日 (木)

メリークリスマス。我が家のチビちゃんたち。

クリスマスイブはささやかなホームパーティをしました。亡き長男の遺影を囲みチビ達の手作りキャンドルに火をともし〔真っ赤な鼻のトナカイ〕を唄います。コレ我が家のクリスマスの恒例です。

私はいつも涙してしまい・・長男に一緒に迎えさせられなかった事を思うと申し訳なく思うのです。チビ達の明るい歌声に励まされてるようで。ワイフの心尽くしのクリスマス料理に続いてお待ちかねのケーキタイムは今年はフルーツケーキで大喜びです。二男も大きな口を開けて嬉しそう。そして私はワインを味わいました。子供達が寝静まったころあいにベッドサイドにプレゼントを置きました。

今朝早くに目覚めた姉妹は希望に近いプレゼントに大喜びでした。二男にも勿論大好きな乗り物のミニ絵本を・・着替えるときも朝ごはんの時も離さなくて大喜びです。嬉しかったの2人のお姉ちゃんがベッドサイドに置かれたサンタさんへの手紙とプレゼント[プレゼントありがとう!]可愛いイラスト共に手紙と赤い缶にキャンディーが四つ入れてありました。実はタオルが置いてあったのを気づかずにいて・・サンタさんに汗拭いてもらいたかったと二女が・・優しい心に感動です。親バカですが(*^-^)[

気持ちは通じてるよ]家内の言葉にニッコリ頷き、満足そうに姉と友達と学校へ向かいました。明日からは冬休みです。厳しい世相で、我が家もそうですが贅沢は出来なくとも家族揃って楽しく年末年始を過ごしたいと思いました。Img_1034_2

2008年12月23日 (火)

フレッド・アステアも愛用した、ブラウンスゥエードシューズ。

Img_1048 久々に書かせていただきますのは、スゥエードシューズの事です。くどい位で恐縮ですが私の大好きなフレッド・アステアがこよなく愛用していて映画にも彼のスゥエードシューズを履く姿が見られます。それは見事でスーツとのコーディネートしてシューズとソックスの組み合わせまで小粋に履きこなしています。本来スゥエードシューズは街で履くタウンシューズでなく郊外なので履くのに適しているのを、これまた1930年代に英国皇太子のウィンザー公が街でスーツと併せて海外訪問でも履きこなし世に広まったとか・・・。

私もそんなデュークやアステアに倣い、グレーフランネルやグレンチェックのスーツに併せたり、カジュアルではツゥイードのジャケットやフェァァィルセーターに併せてみたりと楽しんでいます。Img_1047 タイプとしてオックスフォード〔紐靴〕でメダリオン〔飾り穴〕付きのキャップトウタイプですが、これはギリーシューズといってスコットランドのカントリーシューズで本来は紐を通す部分がギザギザで下のベロがないのですが、紐穴部分をギリーのようにギザギザとデザインされた面白いタイプです。

イタリア人は夏でもはくそうですが、やはり茶色のスゥエードシューズは落ち葉の季節がマッチするようで私にとって足元の秋冬のマストアイテムなのです。スゥエードシューズの着こなしに関しては以下のサイトに詳しく掲載されていますので興味のある方は是非ご覧ください。

http://www.the30sstyle.com/

The30sstylebanner0702

12月23日〔祝〕クリスマスシャンデリア。

今日は祝日でお休み!という事で恵比寿ガーデンプレイスに家族で出掛けてきました。毎年恒例のクリスタルの高級ブランドバカラ社のクリスマス・シャンデリアやツリーのある広場をお散歩してから、お買い物は子供達へのパパ・ママサンタさんからのプレゼントです。

我が家では希望をそれとなく訊き、一緒に買いに行くのでなくあくまでもサプライズで喜んでもらう事にしています。上の姉2人の希望に沿った物をゲットして、二男は手に取った本をそのまま買ってあげました。高価で贅沢な物という訳にはいきませんが、毎年外さずに喜んでくれているので明日のニコニコ顔が楽しみです。

いまや世界恐慌で国全体が衰退して厳しい環境でのクリスマスですが子供達がとても楽しみにしているので、クリスマスソングの合唱をオヤツの肉まんを頬張りながら聞く子供達の横顔に目を細めながら亡くなった長男を含めて家族でささやかに楽しい一時を贈りたいと思いました。

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2008年12月22日 (月)

納品。コインパーキングが・・。

今年の稼働日数も僅かとなった週明け。お客様への納品に都内某所へ車で。いつもとめるコインパーキングが今日に限って満車である・・・・。いつもはスンナリと入れるのだが押し迫った時期ゆえか明日が祝日とあってか・・空くのを待つわけもいかず今日が納期とあって他のパーキングへ先へ進めて発見するも又もや満車(;ω;) Uターンできない道なので大通りへ出て迂回路しかなく得意先方面へ戻り、少し離れてはいるが台数が停められる空車のパーキングへ停めてお客様の元へ。

いつものパーキングなら2分と掛からないものを離れていて5分以上は歩いて納品。色々と説明やら済ませて挨拶を交わし元の道を車へ戻るが昼間は暖かかったのが冷えてきて風も強くなってきて・・・コートを持って出なかったので早足で戻るものの人混みとあって、やはり5分以上は掛かった。車を出してカードを入れると30分は過ぎていつもの倍の値段に゚゚(´O`)°゚

帰りにいつものパーキングが空車になっており待てばよかったかとも思ったが、いつ空くともわからないのだからタイミングが悪かったとしかいいようがない。まぁ道に停めて反則金を払う事を思えば仕方ないと・・。駐車違反の取り締まり強化は仕方ないと思っていても数ヶ所に停めると経費もかさんでバカにならず、かと言って路上駐車では車が気になりお客様の希望等を細かく伺うにも気が散ってしまってはミスの因になりかねず、お愛想もソコソコとなってしまいマイナスだから停めざる得ない。

以前はもっと緩やかで駐車監視員が歩くようになってからコンビニで飲み物やランチを調達するのも混んでいるとヒヤヒヤで、事実出てきたらカメラを構えていて寸でのところでご勘弁なんて幾度もあるのだからパーキングに停めておいて方が気楽である。ガソリンが下ったものの今日は車を停めるのに迂回したから無駄もあったと思うが約束には変えられないので先ずは何よりでした信用が第一!明後日の休み明けも混雑は覚悟しないといけませんね(^-^; 

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2008年12月21日 (日)

[宣戦布告]現行法だと国は守れない・・リアルな作品。

宣戦布告 宣戦布告
販売元:SORA ヤフー店
SORA ヤフー店で詳細を確認する

国籍不明の潜水艦が座礁、ロケットランチャー等で武装したゲリラが上陸して山中に潜伏!自衛隊を出動させていいのか? 政府の対応は閣僚、官僚の法解釈を巡り定まらず、出動した警察特殊部隊も歯が立たず隊員が犠牲に・・・それでも自衛隊の出動をためらう官邸・・・。刻々と時間だけ過ぎ事態は収まらず・・・。

今の法律範囲ではもしも外敵が上陸潜伏してもこうなのか?と思うリアルな作品です。相手が発砲して仲間が撃たれても上層部に交戦許可を伺わない限り反撃も出来ないでいる等、怖いと・・・。[我が国の特殊な法律な何処の国も理解しません!]自衛隊が出動しただけでも宣戦布告したと受け取られる危険を説く外務官僚の言葉ですが、うーん・・・。もしもでなく潜水艦の座礁など起こりうるケースで外国では実際に起きてゲリラと交戦した事もあるだけに、この国は本当に対応できるのかと考えさせられます。

自衛隊とゲリラの戦闘シーンもありますが単にメイドイン・ジャパンの現代の空想戦争映画でなく、原作も読みましたが、決して武力行使を認め憲法改正をあおるのでもなく現実に有事が起きても今の法律では下手すればこうなってしまう!といった事を訴えているような作品です。

12月20日(土) 業界団体、本部の忘年会。

展覧会の後、夕刻より先週の支部に続いて本部の忘年会へ参加してきました。執行部の三役の面々と顧問、そして各支部長に支部会計の団体幹事が集い一年の労を癒すのですが、やはり先の見えない状況を各事業所がどう乗り切るか、厳しい中での団体運営等が話題になりました。兎にも角にも仕事を如何にして確保していくか!本当に厳しい局面である事は確かです。暗くなってばかりでもと色々と楽しい話題も盛り上がり、決まって私の親父の話も出て来て恥ずかしいやら・・・。

私の若いころから知るS顧問は同じ支部で所属で全国業界連合団体の会長も務めた大物で誰もが一目置く存在。若かりし時の事を親父から聞き、且つ知っているだけにネタを出されるは・・・と言ってもあくまでカラカイより好意的にですが。料理も美味しく、お酒もすすみ瞬く間に時は過ぎて今秋、全国団体の会長に就任したばかりのSR氏の三本締めでお開きに。二次会は喫茶店に席を移して、仕事の確保する施策や技術の話し等が話されました。

そして〔良いお年を来年も踏ん張ろう!〕と挨拶を交わし其々が帰路に着きました。来年は月末に新年会と総会で一同に顔を合わせます。ザックバランに意見交換が出来て何か一歩でも前進できるような会になればと思いました。〔皆さんこんな若造を今年も受け入れて下さり有難うございましたm(_ _)m 〕

幹事になって早くも5年経ちますがキャリアも一番短い私の意見にも耳を傾けて下さり励ましてくれたり、最初は緊張の連続でしたが良い経験を積ませてもらってます。技術職としての横の繋がりを大切にしていきたいものです。Photo_4

12月20日〔土〕展覧会に行って。

土曜日は小学校の展覧会に家族で出かけました。今年は私の母校でもある学校創立130年の記念展覧会とあって盛大に学校中が子供達の作品に彩られていて古の学び舎から現代まで写真や大先輩に当たる卒業生の綴った歴史を感じさせる記念展示もあり、懐かしさも蘇ったりと。我が子の作品は親バカで只只、感性も育っていると感激でしたが、どのお子さんの作品も素晴らしいものでした。

素晴らしいと感じたのは絵のデザインも個性的で直向に取り組む姿勢が伝わって来たのと皆さんしっかりとした字を書いているのは嬉しく思え、今や我々大人だけでなく子供達もこうしてキーボードで文章も書くのではなく打つ時代ゆえに書く大切さをしっかり学んで欲しいとあらためて思いました。然し私より上手い!手書きの書類を作るときなど恥ずかしい字となる我が身を反省です。5年の子供達の大きな用紙に一人ひとり個性的に木樹を描いた作品がありました。テーマは[未来への樹]。今の世相は何やら暗い話題ばかりですが子供達の明るい作品に、この子供達がいずれ社会の荒波に船出する未来は少しでも穏やかな明るい世の中であってほしいと願わずにはいられません。

1歳の二男も楽しそうにヨチヨチと二女に手を引かれて展示作品の間を歩いてました。一年おきに展覧会と学芸会が行われてるので5年生の長女にとって小学校生活で最後の展覧会と思うと感慨も一入でした。かわって二女は初めての展覧会でこれから姉と同じく回を重ねる事に成長を感じさせてくれる作品が楽しみでもあります。

二男は未だ先ですが何れは可愛い作品を魅せてくれるのだと。そして亡くなった長男にもこうした友達との楽しい時間を持たせられなかった事が運動会でも音楽界でもそうですが親として申し訳なく思ってしまいます。家内はPTAの部会が重なり駆け足の観覧で残念でしたが私はゆっくりと観られてこちらも申し訳ないやら。子供達の着実な成長を作品を通して感じることが出来て。これからもどの子供達も伸びやかに育っていって欲しいと思った展覧会でした。

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12月19日〔金〕小学校の保護者会。

今年も余すところ僅かとなり、学校も冬休み直前の保護者会に。前日は1年生の保護者会と参観だったが仕事の都合上行けずに、授業参観も行かなかったのは我が家だけと友達に言われたとしょげ返っている二女に申し訳なくも、翌日の5年の保護者会と参観は仕事で都合のつかない家内でなく私が行く事に・・・。仕事で参観時間ギリギリに学校に飛び込み、先ずは1年生の教室を覗くと一日遅れだけに親の姿はなく教室の窓越しに二女が見え、後ろの友達が気づいて二女に教えてくれて、私を見た二女はそっと手を振ってくれて私も手を振り他の生徒さん達の気をそらさぬように教室を後に・・一日遅れの時間にして2分ほどの参観に。

5年の教室に行くと授業が終わる頃で生徒さん達はプリントを提出している処。丁度日直が長女で先生の指示に従い号令をして挨拶を。今は私達の頃と違って起立せずに座ったままなんですね。変わったものです!帰り支度の後、長女が前に出て男子のクラスメートと共に帰りの挨拶の号令を。こちらは全員起立して!参観日に日直の仕事をこなしている姿をそれも楽しそうに笑顔の長女に嬉しくなりました。長女や友達と話ししてから子供達を送り出して保護者会に。前回同様、男親は私一人だけ( ̄Д ̄;; 

先生がレジュメに沿って子供達の様子等を話してくださり、冬休みの注意や新学期の予定の説明がトントンと進み、親からの質問もなく終わると思ったら学級役員のお母さんより来年度の〔卒業委員〕の発足準備の話しが。早いもので春には6年生となり小学校も後一年を残すのみと実感しました。上のお子さんの時に経験した親御さんが意見を言い、最初の子の親御さんは私を含めて聞き入ってました。結論は年度末に持ち越しとなって時間オーバーして、部屋を変えて学年会へ、と言っても2クラスだけですから早々に終わると思ったのですが・・・先日の連合音楽会の映像を見せてもらい、子供達の澄んだ歌声に感動して涙ぐむ親御さんも(u_u。)

前日の壮行会の歌を聞き涙しましたが本番の映像に行けなかっただけに感動再びです。指導して下さった音楽の先生の子供達の毎日朝早くからの練習時や本番の緊張した様子の話しを聞き先生と生徒が一緒に作り上げた成果が実ったのだと思いました。拍手で盛り上がり終わると思ったら隣のクラスの父母が指名して父母に感想を求めて1人、2人で終わると思ったら7人位になり黒一点の私に巡るのではと冷や冷やものでしたが次の演奏の話題に代わりホッと一息でしたが時計を見るとワーッ!仕事に戻らないと\(;゚∇゚)/

 数人の親御さんがこのタイミングに席を立たれたので私も共に教室を後にして職場までダッシュでした。然し前回続いて男1人というのは身のおき場所がないと言うか・・只でさえ目立つので此方から発言など発せずに石の様に硬くなっているだけで・・。でも子供達の様子を観て、先生の話を伺い我が子のみならず子供達の成長を実感できて何よりでした。夜の団欒時に二女が突然の二分間の参観が嬉しかったとニコニコで先生も気がついていらしてたと・・一日遅れの勝手な参観した親ばかが少し恥ずかしいです。゜゜(´□`。)°゜。

然し疲れました・・。家内からは慰労の言葉をもらい子供達はご機嫌!二女の友達が私をカッコ良いと言ってくれたそうで喜ぶ二女が可愛かったです。カッコは兎も角、剥げても老けても良いからシッカリとこれからもパパしたいと思いました。Photo_3

2008年12月16日 (火)

父ヒデオ③ハンコ屋修行!親友との再会、母との出会いそして結婚。

Photo  父は従兄弟に当たる人を頼り、上京してハンコ屋に入りました。その人は元競輪の選手で羽振りが良かったそうです。競輪といえば当時はヤクザの資金源でその人もヤクザ上がりみたいなものでテキヤ~ヤクザかかりの元競輪選手のハンコ屋の親方と裏街道にどうも連なっていたようです。勿論競輪から足を洗って堅気のハンコ屋の親方ですが。その下で最初は丸の内警察署の近くのビルの地下の店でせっせと働いたとの事で子供の頃そこをバスで通ると何度も〔此処で働いてたんだ〕と話してました。その後(親方)の工場で職人修行に入ります。

当時は活字を組んで石膏を流し込んで固めてでゴム印の型を取っていたので必死に鍛錬していたとの事。それを指導したのは私の母でした。母は郷里の山形でもハンコ屋に務めていてキャリアもあって、当時は女の職人さんがいると評判だったそうです。この出逢いがなければ私は存在してなかったのですが(笑)当時を知る人は優しい人だったと母を評してくれました。反面父は簡単なモノばかりで面倒なのは母が組んでいたそうです。父は職人としては不器用だったようです。

そして同時期に共に満州に渡った親友Nさんと再会が叶い生きて逢えた事を抱き合って喜び泣いたそうです。その親友のNさんは父が亡くなってからも父親のように私の相談相手となっていただきました。母もNさんの奥さんには一番心を開けたようで家族ぐるみでお付き合いが続きNさんが亡くなって、母も亡くなってからも現在もNさん婦人は私達家族に優しく接してくれています。そしてNさんと牧場の夢はやぶれても[今度はお互い一国一城の主になろう]と誓い合ったそうです。

父はがむしゃらに働き、長野の親兄弟を養うべく頑張り、弟も高校に通わせます。父と違い弟[私の叔父]は勉強好きで高校の担任と校長が来て進学を奨めたそうですが経済的理由で両親は断ったのですが兄である父が試験を受けさせて某市立大に補欠合格します。そして本人の希望通りに進学させたのでした。

叔父は卒業後に大企業に入ります。息子には場末の町工場を無理矢理に継がせて、弟には自由な生き方を認める・・・酷い親父です。まぁ最期まで妹夫婦の子供の学費援助したりと兄弟思いの男でした。元テキヤの子分であった父は其処で義理人情を学んだと言ってました。そんな訳で自分の結婚は後回しとなり、母も親兄弟を養い、同じく弟が進学して援助をしていて婚期を逃していたのでした。似通った境遇の2人だから自然と惹かれあったのかもしれません。どちらがチョッカイかけたかは最期まで両親は話しませんでしたが(笑)所帯を持ったのでした。父33歳、母32歳だったそうです。

2008年12月15日 (月)

12月14日(日)業界の支部忘年会。

昨日の日曜日は我が業界の支部忘年会でした。支部長を任されてる私が幹事としてチェーン店の大衆居酒屋でささやかながらも、支部員に業界団体を退かれたОBの方もお招きして旧交を温め今年一年の労を癒し、あくる年への英気を養う会でありたいと

。先日引退された全国団体の前会長をはじめ懐かしい顔ぶれも来て頂き和気藹々とした雰囲気で会は進みました。ハンコ業界はここ十数年の間にワープロに始まりパソコンの普及といった世の進歩の影響で需要は一気に下降して苦戦を余儀なくされた中でも、同業者が集い技術の向上や新たなシステム導入の取り組み等、勤しんできた仲間であり、ことに支部の皆さんは父とも懇意にして頂いた先輩方です。父が亡くなってからも本当に可愛がって頂いた方々です。やはり何処も今のご時勢、景況悪化に伴い仕事の減少に頭を痛めていました。暗くなっても仕方ないので今日は楽しくという事で盛り上がりましたが、前会長が高輪泉岳寺の義士際で買ってきてくださった〔赤穂の塩饅頭〕も肴に加えて盛り上がりました。酒に饅頭?流石はウィットに富んだ前会長らしい心配りで嬉しく思いました。

話の中で今問題の派遣切りで即社員寮を退去との事で〔この国は思いやりがない世の中に落ちぶれた〕と・・・。確かに我々は職人仕事で大企業から見れば見下される零細な町工場であっても仲間の事業所の親方が入院すれば業界で仕事を手伝って支えあう温かな団体で、従業員に対しても大企業のように単に駒扱いせず人間としての触れ合いがあるだけに血も涙もなく路頭に放り出すやり方は我慢ならないと・・。私も思いますが今の時代は職人は下請けで叩くだけ叩いて、物も作らず安く叩いて仕入れた品物に少しでも大きく儲けをつけて売る卑しい商人がはびこる世相だけに〔生産階級こそ利益が大きくあって当然〕とある問屋さんが言ってましたが、生産階級がキューキューとなる風潮は何とかならないものかと・・。[昔は職人も仕事があって食べていけた・・・それが手間賃もお涙頂戴程度になってこれでは後継者も育てられないしあとを継ぐ魅力もない・・これはこの業界だけでないようだが]確かにそうなのです。

私の子供時代は活気がありました。[こうやって元気に顔を揃えて逢えるのが一番だ!]前会長の言葉どうりこれからもお互いが元気で逢える様、家族の為頑張ろう!ボヤキの後は元気に新年に向かおうと言葉に出さずとも誓い合って盃を交わし、二次会はコーヒーショップで笑い話に講じて会はお開きに・・。狭い業界ですが忌憚なく和気藹々と過ごしたいと思います。皆さん来年も宜しくお願いします。よいお年を!笑顔で挨拶を交わした後の帰り道はセンチな気分でしたがこの集まりは私にとって貴重な父同様なオヤジさん達との一時なのです。

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12月13日(土)長女が中耳炎に・・。医師の対応の不誠実さに・・。

寒くなった週末の土曜日は午前中に土曜スクールの絵手紙教室に二女と行ってきた長女が耳の調子がおかしいとの事。午後には耳が痛いと言うので、テレホンサービスで診て貰える耳鼻科を探し二ヶ所の内、近いほうの品川駅近くの総合病院[せ○ぽ東京高○病院]に問い合わせると[一時間ほどして泣くほど痛いなら診てあげる]と医師の回答で痛みが治まらない様子なので再度電話すると[市販の痛み止め飲ませれば・・痛ければもっと近くの医者に行けば]何とも酷い返事に怒りが!・・もう一箇所の某医大付属病院に連絡すると診てくれるとの事で急行。家から20分はかかる為、車中でも耳を押さえて痛みに耐えてる長女が可哀想で気ばかり焦ってしまうもココしかないようなので励ましながらも向かい、診察の結果、風邪からくる中耳炎との事。

医師の指示通りに処方された痛み止めをその場で飲ませたもののスグに効くわけでもなく帰路の車中でも耳を押さえてグッタリとシートにもたれかかる長女は(;´Д⊂ 帰って床に就いてしまい食事もろくろく摂らずに床に就いたままで可哀想この上ない状態でした。幸い翌日は痛みも治まってきて、朝食もおかわりして食欲もあり一安心です。然し腹立たしいのは最初に問い合わせた医師の態度です(*`ε´*)ノ 確かに土曜日の午後で時間外とは言え命を預る立場の医師が面倒臭そうに応対して、〔市販の痛み止めで・・。〕とか〔近くの病院へいったら〕等と子供が痛がっている事を聞きながらも全く誠意を感じさせないのにはガッカリです。確かに医師側も疲れていたりといった様々な事情もあるのでしょうが軽く受け流さないで欲しいと思いました。最近は妊婦のたらい回し等、もっと早く手当てしてくれればと思う不幸な出来事が続発して問題になってますが、今回は医師の人間性が現れているような応対には情けなくなりました

。親として痛がっている娘を一刻も早く診てもらいたい気持ちを汲んで欲しかったです。診てもらえた医大付属病院では医師の電話応対も親切で着いてすぐに受付の方が長女の辛そうな様子に診療室まで手続き前に連れて行ってくださり助かりました。地獄に仏でした。子供を亡くしている私達にとってどんな些細な症状でも見逃さずに子供達を無事に育て上げる事が亡くなった長男に対しての功徳でもある故に心が痛んだのでした。しっかりとした医療体制の整備が望まれます。

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2008年12月12日 (金)

シャツを新調しました。

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暖かな週末で風邪も幾分良くなりホッと一息です。先月注文したシャツが出来上がってきました。私の嗜好する1930年代に多く見られたロングポイントシャツです。現在は既製品ではまずお目にかかれない襟形で、その名の示す通り襟が長く襟と襟の間も狭くなっています。

襟も硬い芯が入らないソフトに仕立ててありクラバット〔ネクタイ〕は厚手のタイプだとノットが大きくなり合わないので、芯の入ってない柔らかで細身のネクタイを小さめのノットで締めると上手くまとまります。シャツは消耗品ではありますが、私としては使い捨てでなく襟や袖を修理して長く着ようと思っているのでオーダーしています。好みのシャツを着て正に襟を正して年末、年始を過ごしたいと思いました。

ロングポイントシャツについては以下のサイトで詳しくご覧いただけます。興味のある方は是非ご覧ください。

http://www.the30sstyle.com/

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2008年12月11日 (木)

父ヒデオ② 混乱の戦後に。

Imgjpg NHKのスペシャル番組でコロ島の番組がありましたが、体調不良で床に就き観る事が出来ずに残念でした。ここも父から聞かされた所で満州引揚者にとり関わりの深い地だそうです。

父は帰国後、肉親を探すべく生まれ育った土地に帰るも所在不明で疎開していた長野県へ向かい、そこでも探し出せず一家全滅したのかと思ったそうです。

肩を落とし駅への帰路、さつま芋を洗っている女性を見かけ近寄って見てみると自分の母親だったのです。生前に祖母からの話では夕飯の支度で野菜を洗っていると髭面の男がこちらをジッと見ていて気味悪いと思ったら[おっかさん!]と飛んできてよく観ると次男である父だったそうです。

父の兄は未だ帰還しておらないものの全員無事で父は安堵して、疲れがどっと出て五日間ばかり寝ていたそうです。その間祖母は生きていまいと諦めていただけに嬉しくて枕元でオイオイ泣くので仏様になったようだったと父は苦笑して話していました。

寝てばかりいられないのでそれから父は姉の着物を手に、食料やお金を得るべく農家を廻って着物を食料に換えてもらったしたそうです。そんな日々の中、村の世話人さんから選挙の手伝いを頼まれ給金がもらえるので言われた通りに指定された相手に封筒を配ったら後日、警察が来てジープに乗せられて署に連行され何故?と思っていたら手伝った人達に世話人さんに村長まで連行されてきたので驚いたとか。

知らずに贈賄を手伝わされていたとの事でビックリしたそうです。無論そんな訳ですから即座に放免されホッとしたとか。

兎に角家族を養う為に必死だったそうで父は二十歳になるかならないかの頃の事です。そんなある日父は路上将棋に誘われ対局した所イカサマを見抜き、文句を言うと相手はテキヤの組員で逆に脅しを掛けられたものの父も負けずに[俺は満州の生き残りだ、怖くねえや!]と一歩も引かずにいたら相手の兄貴分が父の度胸の良さに感心して[引っかかるなよ!]と手を売ってくれたとか。

その頃父は神社や寺の境内で古着等を寅さんのように商って生計を立てていて、面白い口上や商売が上手いので地元のテキヤの親分から目を掛けられて盃をもらい子分となり、祭りで露店を出す時等の世話役を任されたとか。

祭りとかの度に旅の渡世人が父の元へきて[お控えなすって]と挨拶に来るので父の両親は嫌がっていたそうです。然し自分の父親も怪我で仕事も出来ないので代わって働き生計を立てて家族で生き抜くために必死だったのでしょう。

そうする内に父の兄がシベリアから解放され帰還したのですが長い抑留生活のせいで暫くは満足に働けずにいたので父が大黒柱として頑張り、父の兄も働くようになり世もほんの少し落ち着いて来たので東京の従兄弟に当たる丹野の親方がハンコ屋をしていたので、其れをつてに東京に出て働こうと決心して親分に意を伝えると往復ビンタの洗礼を受けて[真面目に働くんだぞ!]と餞別をくれて励まされたそうです。こうして父は東京へ向かったのでした。

2008年12月 8日 (月)

親子で母校の創立130年記念式典。

水曜日に二女が発熱して二男とともに病院へ・・・・。薬を処方されて2日後に再診との事で今日も病院へ、混むと思っていたら以外にスムーズに待つことなく診て貰えました。2人とも熱は下がり食欲のなかった二女も幾分元気になったものの2人とも咳が止まずに可哀想です゚゚(´O`)°゚ 二男は吸入を受けて、気管を広げるシールに薬、二女は薬を処方され帰路に着きました。本当は二女は学校の創立130年記念式典だったのですがお休み!でも身体が優先ですから仕方ない・・・。その分長女が歌を歌って祝ってくるでしょう。

私も卒業生で130年の中の6年間を過ごしたと思うと思いでも蘇ったり・・。イジメラレッ子の私を可愛がってくれた先生方も卒業時の先生は既に故人となり寂しさも感じます。娘達も同じ学校に入学して先輩・後輩に、風呂場で一緒に校歌を唄った時は嬉しく感じたり、学校、学童の父母も卒業生がいたり、後輩がいたりと地元ならではの・・でもちょっとブルーになる事も。私をイジメた同窓生と逢った時は苦い思い出か蘇ったりと・・でも親同士となり普通に接してくれれば過去は過去として良いのですが、中には当時と一緒の見下した態度の同窓生もいたり、だからと言ってキレてやり返すのも大人気ないので敢て相手にならないのが得策です。これも地元ゆえの悩みでもあるのでしょう。

しけた話はこの位にして、サンキューカードなる物が廻ってきて、学校に対する祝意や謝意をメッセージを書くのですが、私は当時お世話になった先生方へ感謝の言葉を記しました。[先生方と過ごせて良かったです]とそして家庭を持ち娘達が通っている事も記しました。この記念式典に、記念展覧会の期間に廊下などに張り出すそうなので来校されて見てくれたら嬉しいなとおもっています。親となり保護者会などで行くと変わってない学び舎に入るとタイムスリップする事もあり、教室にA先生がいて、ガキ大将のB君や優等生のCさんがいる様な気がしたりと。でも時は流れて両親も既に亡くなり孫のランドセル姿を見て欲しかったと込み上げる事もあります。

今は親としてしっかりと子供達を愛し育てるという当たり前の事を普通にしていければそれでいいと考え、娘がもらってきた記念誌を見て娘達を含めた全校生徒の集合写真や文集を目にどの子も溌剌と楽しい小学校生活を送って欲しいと思いました。

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父ヒデオ①。時代に翻弄された人生・・満州へ

父というと私と母に重荷で逃げ道をも塞いだ恨みが根強く残り、良いイメージは薄いのが息子としての偽ざる気持ちですが、今日は開戦の日。戦争という自分ではどうしようもない不幸な時代を生きた父・・。そんな父の時代を綴りたくなり書いてみました。

父ヒデオは昭和3年4月8日のお釈迦様の誕生日と同じ日に東京は品川で6人兄弟の二男で姉と兄、弟と2人の妹[一人は幼くして病死]として生まれ育ちました。父にとり、可愛がっていた妹の死は衝撃で、葬儀の日に妹の同級生の弔問の時に厳しかった父親〔私の祖父〕の泣くのを初めて見たと話していました。私が長男を亡くした時、その話を思い出し弟を亡くした娘2人がどれ程の衝撃を受けたかと思ったものです。

父は最初は航空兵になりたくて予科練の試験を受け落ちたので、動物が好きで親友のN氏と[狭い日本でなく広い大陸で牧場をやろう。]と志を立てて15歳の時に[少年義勇軍]として満州(現在の中国東北部)へ渡るべく志願して茨城県は内原の訓練所で訓練を受けた後に渡海して彼の地に渡ったのでした。彼の地は自然環境が厳しく、凍傷で耳が壊死しそうになったのを親友のN氏の看病で免れたとか。確かに父の耳は飲んでもないのに赤らんでいました。

夜間に歩哨として警備に当たっている時暗闇から狼の群れが寄ってきて怖かったとか、隣の集落が馬賊(馬に乗った武装強盗団)に襲われて全滅したとか、死んだ仲間を荼毘に付す役目もしたとか聞いたものです。そして日本は戦争に破れ、父達は侵攻してきたソ連[ロシア]軍から開拓団と共に逃避行を余儀なくされます。以前テレビ化もされた山崎豊子さん原作の〔大地の子〕にも大変な様子が描かれています。年寄りは逃げるのに足手まといになるので毒入りの饅頭を食べさせたそうですが父はどうしてもその役目はできなかったそうです・・・。私はそれを聞いて安心したものです・・。毒饅頭を配った仲間は帰国後に罪の意識に苛まれ精神的に病んだ人も結構いるそうです。

目の前で仲間が同胞が銃弾に倒れるのも見たと・・夜間に逃げるそうですが頭の上を銃弾がオレンジ色の火の玉となって飛び交っていたのは怖かったそうです。また子供を泣く泣く置き去りにする姿も見たそうです。私が高校生くらいの頃〔中国残留孤児〕が来日すると[○○のおじさんに似てルナー・・。あそこには男の子がいたから・・。]と画面を見つめてつぶやいてりした事もありました。

その後父は命がけの逃避行の後に暫くは中国軍の下で働き、朝鮮半島までたどり着き、そこで親友のN君とはぐれたそうです。2人は[生きて帰国できたら鎌倉の八幡宮で会おう]と約束していたそうです。そして父は引き上げ船で京都は舞鶴港へ帰国したのでした。父、母、兄弟は生きているのか・・・・不安の中での帰国だったと話してました。父は検疫所で蚤の駆除のDDTの粉を体中にかけられるのが嫌だったそうです。父は肉親の安否を求めて一年間有効のフリーパスの切符を手に列車に乗ったのでした。

Img 写真は父が満州へ渡る訓練所に入る為に両親と兄弟に送られる際の写真です。兄は出征していてこの場にはいないとの事でした。帽子を被り手袋姿の少年が父で、私の祖母である父の母は何処かの影で泣いていて写ってないそうです。国が愚かな道を歩み、少年まで国策で駆りだした思うと悲しくなります。

Img_0001 こちらの写真は父が訓練した茨城県の内原訓練所の様子で、絵葉書が残ってました。

2008年12月 4日 (木)

自分の居場所、とある親父の行きつけのお店。

最近、首相の庶民感覚離れした高級ホテルのバーへ毎晩繰り出す話題がよく上がってますね。色々言われていますが元々、庶民とは違う名家の出でだそうで一緒にはならないのでは・・。ああいった場所のほうがあの方には話し易い自分の居場所なのかとも思えます。時折テレビでバーやクラブが登場すると死んだ親父の居場所を思い出します。酒飲みの親父は近所のスナックに業界の付き合いやお客と色々のみ歩いてましたが、よく車で迎えに来させられた物でした。

社会人になって二年目くらいの時だったかな・・・例の如く迎えに来いとの電話で指定されたビルを探していくと黒塗りの車が並んでてその後ろに着けて待ってると・・今のように携帯電話なんてない時代でどれ位待ったでしょう、蝶ネクタイ姿のウェイターさんとホステスさんらしい美女が寄ってきて窓をノックして[・・・さんの息子さんですか?中でお待ちですのでどうぞ!]と笑顔で言われエッ車は?と考えてると[キーをお預かりします。]との事で車を預けると件の美女が[ご案内いたします]と笑顔でエレベーターへエスコート・・・。緊張気味の私に[お父様に似てらっしゃいますね。]と笑顔でドアが開くと木製の重々しい扉が直ぐ其処に開いてビックリ[いらっしゃいませ!]着物姿のママさん風の美女と黒服がうやうやしく出迎えてくれて美女と共に案内されると中央にグランドピアノを奏でるピアニストに大きな花瓶に大きな花が活けてありテレビでしか見たことない光景でヒビりがちになりながら親父のボックスへ。

赤い別珍の丸いソファで美女2人に囲まれてもう一人の方とご満悦の親父は[おう!すぐわかったか?]と両脇の美女は立ち上がりお辞儀して[いらっしゃいませ]との挨拶にビビル私を尻目に親父は[倅だよ!]と一緒の方とお姉さん方に笑顔で・・その方は取引先の方で私を紹介する為に呼んだのだと判り、緊張して挨拶を交わして座るとエスコートしてくれた美女が隣に座り[お車なのでこちらで良いですか?]とウーロン茶を出してくれて取引先の方の発声で乾杯!親父は上機嫌で私を肴にしてある事ない事色々と・・・。ホステスさんからも[彼女はいらっしゃいます?]と突かれるは当時は若く明るく饒舌だった私も父親と客の前であるのと初めての雰囲気に圧倒されて硬くなってしまったのでした。

ホステスさんも上品でキャーキャーせずに親父達の話に聞き入っているママが挨拶に来たときも上品な雰囲気の女性で緊張した。硬くなった私はこちらから話題を提供する勇気もなくホステスさんや取引先の方の質問や話に答えたりするのが精一杯だったと記憶しています。帰りもママとホステス勢ぞろいで店の前に黒服さんが回してくれた車まで見送られ、後ろの席に乗り取引先の方とご機嫌そうに親父は手を振ったりしてましたね。取引先の方の自宅まで送り、助手席に座りなおした親父に[すごい店で飲んでるね?]と訊くと[銀座と違って高くないさ、驚いたか?]と親父・・・。

その後親父とはその顧客と共に数回、一度だけその店に2人で行きましたがその時も何時もの様に寛いでいた感じで接待も楽しんでるのかと思ったものです。私もなれてきてホステスさんと冗談に講じたりと。その時領収書を見たのですが何十万でなく一人一万円とちょい!でビックリでした。クラブと言っても色々あると勉強になったような・・・。でも若造の私には[高い店!]には違いなかったですが・・年取った今でもそんな店では飲めません(@Д@;

親父が他界して件の顧客の方からこの店でとご指名がかかり渋々と行ったのですが・・・親父が亡くなった事に店のママや馴染みのホステスさんが演技でなく泣きながら思い出話をしてくれたのが印象的でした。その顧客の方は父が私を紹介してから可愛がって下さっていて[この店はお父さんと俺には家以外の居場所で、単に仕事がらみでなく飲んでたんだ・・寂しいよ一人で来るのは。]と仰りグラスを見てました・・その後親父に変わって私がご一緒したのですが、お客なのに私に勘定をさせずに[お父さんには散財掛けっぱなしだったからさ。]と常にご馳走になりました。本当に仕事を超えた仲だったのでしょう。

いつしかその方共リラックスして飲めるようになったのですが、身体を壊されて故人となり、その店も今はなくなっています。取引先も経営者であるその方が亡くなり後継者もなく閉める事に・・・。でも○○さんからは親父の話や人生論やら色々と愉快に飲みながらも教わった気がします。私にとっても居場所というか教室だったのだとも思います。今頃あちらで楽しく飲んでますかね・・・。飲む、打つ、買うの三拍子揃ったお袋泣かせの極道親父でしたが人当たりの良さが商才に繋がっていたのかと・・・。過ぎたる居場所というか、時代も良かったのでしょう。楽しそうな親父の顔を思い出し憎たらしくもなりながら苦笑したアキノリパパでした。1歳のチビが大人になったとき楽しく飲み交わしたいなと。Photo

夜中に目が覚めて・・・。

風邪引いてカレコレ一月近く・・・。今日は二男に続いて二女も発熱して可哀想です。咳のせいで左の脇の下が肉離れを起こして咳き込むと未だ痛くて・・ようやく腫れも引いてきて収まりつつありますが痛みます。咳が抜けないのは歳のせいでしょうか?身体が弱ると気力も萎えるようで必死にモチベーションを高めようとしても歯がゆいばかりで、私は兎も角子供達が早く回復して楽しい年の瀬を迎えられるように祈るばかりです。

今日は取引先訪問中に気分が悪くなりお茶を入れてもらったりで情けない一日でした。気遣っていただいた社長さんに女子スタッフの皆さんありがとうございましたm(_ _)m 寝不足もあるのかもここ数日夜中に目が覚めて困っています。病は気から!パパたる私が明るく率先して我が家の風邪菌を追い出さねばと!これから寝なおして今日は二男と二女を連れて病院へ行こうと思います。仕事は?勿論しますよ!少しスローペースを早く取り戻そう!と気ばかりあせるアキノリパパでした。0361jpg

2008年12月 3日 (水)

本当のゴム印とは。ネット広告の落とし穴。

Photo 最近ネット広告を見てるとゴム印とうたいながらもゴム印もどきが多いきがしてます。本当のゴム印とは文字どうり流しゴムといってラバーというゴムの印面のついている物を指します。ネット広告の写真を見ると色はオレンジがかがっていますがラバーでなく樹脂印という物・・・。

あれはラバーでなく合成樹脂の印面を使っており、ゴムでない為に柔軟性に欠けて印字面も押した時に綺麗でなくその上耐久性に劣る欠点があります。樹脂ゆえに気温が低くなると硬くなってひびが入り文字の部分がポロポロと崩れて原型を留めないくらいに下地だけが残ったりとのクレームも多く、役所などでは嫌われています。品質改良が成されているとは言え所詮ゴム印には叶わないのです。

でわ何故に流通しているかと言うとメーカーの立場として見れば製作過程がゴム印より手間要らずという一点と材料がゴム印ほど要らずに経費も掛からずと言う事でネット販売の業者は多用しているようです。然し値段を見てビックリ!ゴム印以上に高く設定されたりで、目玉商品的に一部は安く設定してもトータルで見ると色々とトッピングされて高く設定したりとカラクリもあるようです。

中には樹脂印と商品説明をキチンとしている所もありますがゴム印とうたっている業者が多いことは閉口してしまいます。見た目もゴムに似せてありますが、全く違う製品!不当表示と言われぬように説明は心掛けたいものです。うちの工場ではラバー素材のゴム印を造っています。

耐久性に優れて捺印精度も良いので創業以来変わってません。この他耐油性ラバーの黒いゴム印となります。どうぞネット販売の写真では一般の方の判別は難しいかもしれません。業者によっては印面をアップしない所も・・・。オーダーメイドの品である以上サンプルは正確に示す誠意が欲しいと思いました。

(有)清山堂製印所  http://nttbj.itp.ne.jp/0337129142

2008年12月 2日 (火)

函館旅情・・。旅行社からのカタログを見て。

師走の始まりは昨日、今日と、朝から背中がしびれて体調思わしくないスタートとなりました。昨日は外回りから戻った午後に保育園から電話が入り二男が発熱して迎えに行く事に・・・受診して薬をもらい測ったら園で聞いたより下がっていて機嫌もよく一安心です。

気がつけばランチも食べてなく、夕暮れ時に疲れたのでお茶を飲みながら毎月某旅行社より送られてくる旅のカタログに目を通すと函館のツアーが・・・二女が1歳になった秋に旅したコースとほぼ一緒で、長女が2歳の時に母と家族で行ったのも同じフリープランで泊まったのも同じ〔湯の川温泉〕でした。そもそも函館は高校時代に家族で北海道旅行した折にも最初に降り立った土地で、新婚旅行でも二泊した土地で、長女が2歳になった五月の連休にハネームーンの地を娘と母と歩きたくて、母への孝養にもと湯の川温泉に出かけたのでした・・・。その時の事を思い出して見入ってしまいました。

北の港町で孫と共に母は嬉しそうだったと。函館港の赤レンガ倉庫群に元町散策、旧函館公会堂の前の芝生で長女と鯉幟を楽しげに見ていた事等蘇ってきました。空港に降りてバスに乗り長女を膝に抱いて外の景色に〔お父さんと来た時もこの景色だったね・・今度は孫と連れてきてもらえるなんてね〕と感慨深げに見入っていた母。風が強かった十字街では家内に手を取ってエスコートしてもらい嬉しそうでした。翌年冬に母は他界してその年の夏に広島の親戚を尋ねたのが最後の旅となつてしまいましたが家族で旅した函館が印象に残っています。

ハネムーンで立ち寄った、すし屋さんに、函館山の麓の小さなレストラン等、私達夫婦の足跡を母と娘とあらためて歩いた旅だけにそう感じています。孫と嫁とゆっくり湯に浸かり蟹料理に舌包みを打つ母に父の死後苦労している母に少しだけ孝養が叶ったと思った旅でした。家内が強風で帽子を飛ばされたので〔帽子を探しにまた来ようね〕と冗談交じりに言ったものの母にとって最後の北海道に・・・行きの機中で空から生まれ故郷の山形上空より蔵王の火口湖を見て〔蔵王のお釜だわ・・。〕と言っていた母、これも故郷を空から目にしての最後となってしまいました。入院前に〔色々な所に孫と連れてってもらって楽しかったよ・・ありがとう。函館の旅も楽しかった・・〕そう言いのこして家を後にしました。〔退院したらまた行こうね・・。〕の言葉に〔ありがとう!〕と笑ったのですが叶う事はありませんでした。

母が亡くなった後に二女が生まれて三度目の訪問した時は家内が〔此処にお義母さん座って景色見てたよね〕とか母を思い出してか涙したりと同じホテルだった事もありセンチになったりと、赤レンガ倉庫のビアホールでは同じ席に座ったりと母を偲ぶ旅でした。二男がも少し大きくなったら行って見たいです。何故って家族で行ってないのは彼と彼の兄の故長男だけですから・・。そう陽気のいい母と訪ねた5月の連休あたり行きたいと思います。何かここの所母の事ばかりでマザコンと思わないでくださいね〔笑〕

今の時期は母が入院した時期で年が明けてすぐに命日を迎えるのでその頃がリプレイされたような気分で思い出すからです。今思うと本当にあれは親孝行だったのか?ある方からの言葉で〔親孝行とは旅行とか食事に連れて行く事だけでなく側にずっといた事が心強くて嬉しかったと思うよ〕と・・・。確かに家庭を持ってからも共に暮らして看取ることが出来てよかったなと・・。孫と過ごす母の笑顔と、家族で旅した北の街の写真に色々と思い出した師走の宵でした。Photo_3

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